2012年02月27日
罪について

昨日は、礼拝で聖書のローマ書という個所から、
罪について考えた。
聖書は、すべての人は、罪人(つみびと)であると言っている。
罪とは、ねたみ、殺意、争い、悪巧み、陰口、欺き(うそ)、神を憎む、
親に逆らう、約束を破る、高ぶる、偶像を拝む、人を人と思わない等
イエス様は、私たちが受けるべき罪の身代わりとなって、
十字架にかかって死んでく下さった。
そのことを感謝して受け入れることにより、
罪赦され神様から清いと宣言された。
しかし、現実としては依然として罪は残ったまま。
先日、ダルグという薬物依存者の自助グループの人達の記事を見た。
薬物を克服しようとする時、毎日、「今日だけはやめておこう」の繰り返しを何年も、
何十年もしているそうだ。
罪についても、同じだと思った。
一度、「勝利した」と思っても、
また、ふつふつと罪の芽が出てくる。
これもまた、今日だけはやめておこうの繰り返しかな・・・。
でも、やっぱり失敗も沢山する。
少なくてもいいので、ありのままを受け入れてくれる仲間が必要だと思う。
いつの日か、天国に行く時までは・・・。
by わらしべ
Posted by 豊橋セル at 21:46│Comments(3)
│思うこと 感じたこと
この記事へのコメント
イエスさまと、受け入れてくれる仲間がいるということは何と言う恵みなんだろう(;;)と日々思わされます。
本当に神様は人を愛し、目と目を合わせて話がしたいのだという思いや優しい愛のメッセージが降り注ぎます。これを邪魔するのが罪の性質。。。悔しいですね!
本当に神様は人を愛し、目と目を合わせて話がしたいのだという思いや優しい愛のメッセージが降り注ぎます。これを邪魔するのが罪の性質。。。悔しいですね!
Posted by mika at 2012年02月28日 09:55
ダルグのみなさんも、1人では薬物に負けてしまうけど、仲間と励ましあいながら戦っているそうです。時には負けてしまうこともあるけど、それでも赦し合う。
それって簡単なようで難しいことですね。
それって簡単なようで難しいことですね。
Posted by わらしべ at 2012年02月28日 20:01
ダルクの人たちの話を聞きながら思ったことは、仲間が失敗しても許しあえるのは、自分自身も弱く、薬物依存に対してまったく無力であることを知っていることが大きいのかなということ。
自分も罪に対しては無力であり、ただ、イエスさまの恵みによって生かされていることをもっともっと、芯の部分で理解したいですね。他人の目のちりを取ろうとする前に、自分の目の中の梁を取り除きたいです。
自分も罪に対しては無力であり、ただ、イエスさまの恵みによって生かされていることをもっともっと、芯の部分で理解したいですね。他人の目のちりを取ろうとする前に、自分の目の中の梁を取り除きたいです。
Posted by キャーマン at 2012年02月29日 00:38